感情と論理

自分と相違する意見を持つ他者に自分の意見や考えを理解してもらうことは、
ビジネスに於いても私生活に於いても容易なことではない。

そのような場合、聞き手と話し手のコミュニケーションの軸は
大雑把に「感情」を軸としている場合、「論理」を軸としている場合とに
二分されるのではないかと考えている。

相手と自分の軸がそれぞれ
「論理」と「論理」であればそれは議論になり、
「感情」と「感情」の場合はぶつかり合い、喧嘩となる。

最も話にならないケースは
「感情」と「論理」で相対する場合である。

「感情」とは人間にとって重要なエッセンスであることに疑いの余地はないが、
こと、コミュニケーションを取る際に「感情」を軸にされると、相互に考えを共有する
阻害要因になる確率が極めて高いような気がしてならない。

「感情」を軸とする人は、自分の直感を信じ、感覚や抽象的な話で意見を組み立てて
反対意見の具体的なデータや論拠を、一切信じない、信じようとしない。

自身が拠り所とする根拠やデータに関しては、いかにそのエビデンスを覆す物証があっても
ロジックがあっても、受け入れず頑なに信じて疑わない。

そのような相手に延々と論理を展開したところで、
暖簾に腕押しであり、馬耳東風 であり、ヌカに釘でしかないのだろう。

いかに相手の軸を「論理」に変えさせるかが肝要であり、
間違っても自分の軸を「感情」へシフトさせ、単なる喧嘩
で終わらせてはならない。

もちろん、相手が議論するに足りるか、本当にその考えを共有しなければ
ならない相手かということは確りと吟味する必要があるだろう。

経営者として、顧客、社員、様々なステークホルダー等とのコミュニケーションを
いかに円滑に行うかということの研鑽は、決して怠らぬようにしようと思う。

全く、コミュニケーションとは文字にすれば容易いが
実に奥が深く、ある時はシンプルで、またある時は複雑で、時に様々に形を変え
捉えどころがなく、未だにわからないことだらけで日々勉強せざるを得ない。

そんな僕でも唯一分かっていることは、
夫婦喧嘩に於いて、僕がいかに妻を論理的にやり込めようとも、
僕がいかに正しい主張を理路整然と伝えたとしても、
最終的に感情を軸とした妻に謝罪する羽目になるという流れだけは
誰にも変えることができないだろうということだけである。

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ