education

思えば、子供のころから受けてきた教育というものは
ほとんどがあらかじめ「正解」が用意されている問題を
いかに解いていくかという代物だった。

例え数学で、高度な応用問題があったとしても
結局、正解は一つしかなく、結果も「○」か「×」しかない、そんな教育。

ところが、実際の社会には「あらかじめ決まった正解」なんてものが存在しない
おそろしく難解な問題がそこかしこに溢れている。

答えは、自分自身で探すしかない、応えてくれるものは結果しかない、そんな問題が。

答えが決まっている教育に慣れ親しみすぎた人たちは、
他の誰かが出した答えが違っていれば「反対」すればいいと
「それは間違っています」とだけ言いさえすればいいと、本気で思っている人が多いようだ。

問題の本質は、「正しいか」「正しくないか」ではなく
「どうすればいいか」なのに。

最近やたらと、様々なことに反対する運動を目にする。
いわゆる「代案のない反対」が、まるで型遅れのバーゲン品のようにあちこちに散乱している。

戦争も、人が死ぬことも、人の命を奪うことも、当たり前だが誰だって反対だ。

今更わかりきったことを、日本中の正義を代弁しているかのように演説し行進する若者達。
その行動力には敬意を表したい、仮に裏で入れ知恵をしている大人たちがいるとしてもだ。

でも、本当に問題を解決したいなら、解決する気があるなら、
その運動がパフォーマンスで無いなら、「どうすればいいか」具体的なアイディアを出し、
それを広める為の運動に力を入れてみてはどうだろうか?

幕末の志士達は、攘夷派や開国派等、様々な立場で相手の意見に異を唱えながらも
ではどのようにすべきかという確固とした意見をそれぞれが持っていたと思う。

その、確固とした意見と、それを具現化する想像を絶する、命がけの行動によって
日本は外敵による侵略から国を守り、そのおかげで今の我々の生活が有る。

我々の祖先はそのような苦難を乗り越えてきた、
我々の祖先は、ただただ反対するといった無意味なことをする余裕はなかった、
反対するのであれば、代案を示したし、それを実現しようと必死に行動してきた。

いい加減、「反対するだけ」というこの不毛な流行の連鎖を断ち切ろう。
その為にも、幼少期からの教育の在り方を根本的に見直す時期に来ていると本気で考えている。

日本人が日本人であり続ける為に。

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